ピアノ

「なぜすばるくんはピアノが好きなんだい?」

ルイが僕に聴いたのは夕暮れ時のレストラン。
ここはピアノやバイオリンの生演奏が楽しめる。

「なぜって、…なぜかな。特に理由もないけど。なんか好きなんだよ。子供の頃から」

ルイはシャンパングラスを傾けながらサングラスの奥の優しい目で僕を見つめて微笑む。

「君はピアノのお稽古が嫌いだったけど、ピアノは好きだったんだよね。先生がおっかなくて。でも自分が好きな曲を弾くのは楽しかった。」

「そうそう。どうしても興味がない曲は練習したくなくて。怒られてばっかりで。ゲンコツもらった時もあった。でももっと練習してたらよかったなあ。そしたらルイみたいに弾けるようになったかな」

ルイはふふ、と笑う。

「君に楽しくピアノを弾かせられなかった大人も能力不足だったと思うなあ。それは君のせいではないと思うよ。弾きたくなったらいつでも僕は教えてあげるから、僕のピアノを弾きにおいで」

僕はルイの言葉が嬉しくて、思わずニコニコしながらうなづいた。

ふと目を見やるとショートカットの女の人が現れて、店の真ん中に置かれたグランドピアノに座った。

「あ、来た来た。彼女だよ、ここの1番のピアニスト。僕のお気に入りなんだ。」

ルイの顔がいつもよりふわっと上気したように感じた。

「あの人が優里さんか。ルイの好きな人でしょ、前に教えてくれた」

珍しくルイがちょっと恥ずかしそうに笑う。

「ふふ、そう。優里ちゃん。芯が強くて素直で可愛い人だよ。すばるくんは彼女に何をリクエストする?」

スッと目の前に小さな紙とペンを差し出された。
リクエスト、か。

僕は少し考えた後、「主よ、人の望みの喜びを」とその紙に書いてウェイターに渡した。

「素敵なリクエストだ」

ルイは目を細める。

優里さんの演奏が始まる。
僕の大好きなメロディを、彼女の指が奏でる。

しゅよ、主よ、主よ…
神さま、と僕は小さく呟いた。

「彼女ね、本当は宗教が嫌いだから宗教の曲をリクエストすると怒るんだけど、今日はすばるくんのリクエストだから特別。いいでしょ?彼女の演奏」

うん、と僕はうなづいた。

「すばるくん、君が本当はなり得たもの、永遠に失われてしまった数ある可能性の君を、Xと呼ぼう。これから僕と時々、Xに会いに行かないか?空想の世界ではどれだけ旅しても自由さ」

優里さんの美しい演奏に合わせて、まるで歌うようにルイは言った。

X。失われたあらゆる僕。

解き放って欲しがってる無限の僕。
それもいいかもしれない。

そうするよ。そう答えて僕はペリエを飲み干した。

芯の強い人が奏でる祈りの曲が心地よく僕に染み込んでいた。



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