寝台は上下左右に不規則に揺れていた。
この揺れ方には覚えがある。『船の上にいるような』感覚だ。
僕はこれを一度体験している。身体の動きとともに埋もれていた記憶が刺激される。
「お前も飲むか?」
耳元で声がして、僕は飛び起きて辺りを見回すが誰もいない。
「お前も飲むか?船は酔うぞ」
スラリと長く綺麗な手が僕に錠剤を差し出す。
よく日に焼けて背が高く、メガネをかけた男が僕の藍色の空間に立っていた。
「お前は…」
顔を見ようと目を見開いた時、突然僕の心の空間にメチャクチャにかき鳴らしたエレキギターの爆音が響いて僕は耳を塞いだ。
「うるさい!!なんなんだよ!!」
「顔は見るな」
男が静かに言うと音は止んだ。
「飲まないのか?」
次の瞬間、僕は見覚えのある船上にいた。
とっぷりと夜になり、甲板の上には潮風がよく吹き込んでいる。辺りには若者のグループが大勢いて、それぞれが酒を飲んだり大きな声で笑いながら楽しそうにしていた。
「いい。私は乗り物酔いしないから」
錠剤を断ると男はものすごく意外そうな顔をした、ように感じた。あいかわらず顔の上半分は黒い霧がかっていて見えない。
「飲まないの?飲んどけばいいじゃん。これから外洋に出て揺れるぜ」
「いい。もう寝るよ。おやすみ、ソラ」
ソラは変なやつ、と言うように一瞥すると、ああ、おやすみ、と言ってグループの方に戻っていった。
僕はその酔い止めの小さな錠剤を飲むのが怖かった。
その頃の僕は、不安を紛らわせてくれる薬を医師に処方してもらったばかりだったからだ。
せっかくのみんなでの旅行中に、具合が悪くなったら興醒めになる。飲み合わせや酒には気を遣っていた。
ソラも含めて友人たちの誰にもそのことを言っていなかった。本当は誰かに洗いざらい話してしまいたかったけど、ダメな人間と思われるのが怖かった。
その頃の僕は、本当の気持ちを誰にも言えないまま生きていた。
僕は船内の、自分に割り当てられた寝台に戻った。
グレーのフェルト張りの一人用の寝台。
半円形の窓からは夜の闇しか見えなかった。僕は時間を確認すると、持ってきた小さな錠剤をミネラルウォーターで飲んだ。ブロマゼパム、とその銀色のヒートには印刷されていた。僕の唯一のほっとするお守り。
祈るようにそれが喉を通って胃袋に落ち、小腸で吸収されていくのを待った。
船はソラが言ったように揺れが激しくなっていった。
本当はソラから薬をもらって飲みたかった。
僕にとって今は小さな安定剤と、ソラのそっけないのに優しい綺麗な手が日々の望みだった。
ここに来てくれたらいいのに。
そんな望みのないことを思って目を閉じた。フェルト張りの寝台は思ってるより硬くて、何度も寝返りを打ちながら浅い眠りを繰り返してそのうち夜が明けた。
船は何度か寄港地により、目的の島に到着した。
太平洋上の小さな島だ。
「昨日酔わなかった?」
船から降りるとソラが聞いてきた。
「全然。ソラは?」
「俺は飲んだのに明け方酔ったよ。乗り物に弱いんだよなあ」
と言ってから、ソラはいきなり僕のおでこに手を当てた。
「なんかお前顔赤くない?熱でもある?」
こいつときたら、天然のプレイボーイなのか、誰の前でも、誰にでも、結構平気でこういうことをする。
「ないよ。調子いいし。」
「うん、無いな。あー腹へった。早く島寿司食べたいなあ」
こんなやつに振り回されてる僕もどうかしてるんだろう。
馬鹿だとわかっているけど、ソラの何気ない仕草や大きな手に、僕はいつも心を動かされてしまうのだった。
「思い出してきたようだな。あの時お前が俺をどんな目で見てたか、俺はわかってたんだぜ」
僕の藍色の空間で、ソラのようなものはそんなことをいい放った。
「うるさい、今更そんなこと僕に言ってどうなるんだよ。
お前にはあの子しかいなかったくせに。もう何もかも遅い。全部、手遅れなんだ。もうお前のことは思い出したくない。島の思い出なんかいらない」
僕は耳を塞いでしゃがみ込んだ。
「そんなこと言ったって、お前は忘れられるはずがないよ。それに、俺がいうのも変だけど、お前は忘れないほうがいいよ。今のお前にとって必要なこともあったはずだ。例えば島で機織りをした時の感覚。俺はお前に言ったよな?お前ってモノづくり向いてるんだなって」
僕は聞こえていたけど黙っていた。
「もっとあるぜ。島から次は内陸に飛ぼう。着いてこいよ、お前は絶対忘れちゃいけないんだ。」
ソラが僕を優しく抱き起こした。こんな時ばっかり優しい手で本当にずるい男だと思った。
「ほら、お前の心の中みたいな色をした部屋を観ただろう?ひんやりして、そこだけ空気がピーンと澄み切ってた。あの美術館の部屋」
僕はハッとして目の前に現れたドアを見た。
「さあ行こう」
ソラが扉を開けた。
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