寝台車

すっかり夜になった車内を見渡すと人はさらにまばらになっていた。


僕はもう一度長椅子に座り、オカベさんの声を思い出しながらカバンを抱えて眠ろうとしていた。


「お客さん、お休みになるならこちらへどうぞ」


上から、いつの間にかそばに来ていた車掌の声が降ってくる。僕は驚いて顔を上げた。


「びっくりした…こちらって?」


「こちらです。さあ」


車掌は自然に僕の手を取って歩き出した。突然のことに僕はされるがままに引っ張られていく。


車掌は僕を隣の車両へ連れて行った。連結部の扉が開くと、そこには不思議な光景が広がっていた。

「これは、寝台車?この路線にはそんなもの走っていないはずじゃあ…」


「遠くまでお出かけになる方のために最近増設したのです。旅には休息が必要ですから」


車掌はまだ僕の手を握っていた。なんだかさっきより強く握りしめられているようだ。僕はなんだか居心地が悪くなって手を離そうとする。

しかし車掌はますます痛いくらいに手を握ってくるのだった。

「あのう、痛いんですけど。手、離してください」


僕が言うと車掌は深く被った帽子の奥から鋭い目を向けてきた。

「まだ…、いや、これも過保…か…、しかし…」


「は?何か言いました?」


車掌は聞き取れない何かを呟いて、いや、なんでもありません、と言うと結局手を掴んだまま僕を車両の奥へと連れていった。


「あなたはこの寝台の2段目を使ってください」


「わあ、2段目とかいいですね、ワクワクする。ありがとうございま…」


言い終わる前に車掌は僕の手をぐっと引っ張って顔を近づけた。

「いいですか、夜の間はこことトイレ以外には移動しないこと。他を覗かないこと。約束してください。それと、ここは寝台車。もしも船の上のように感じても、それは現実ではありません。記憶は過去のことです。忘れないでください」


車掌があまりにも真剣に言うので僕は気圧されながら、はい、とうなづくしか出来なかった。

船の上のように感じても?


車掌はそれだけ言うとようやく僕の手を離した。


「…すみません。周りに、貴方を狙っているものがたくさんいたものですから。狙ってると言っても、その、肉体的に暴力を振るわれると言うことではなく…貴方の」

ん、と車掌がその次の言葉を喉に飲み込んだのが分かった。

「…とにかく、私の言ったことを守ってください。どうしても一人でどうしようも無くなったら、私を呼んでください」

では、と言って鋭い目で僕を一瞥すると、車掌は去っていった。

さっぱり意味がわからなかった。狙ってる?
あの車掌、どこかで見た覚えがあるけどやっぱり思い出せない。

ま、いいや。

僕は気持ちを切り替えて寝台の2段目に上がった。

布団などが敷かれているわけではなく、一人が横になれるくらいのスペースにグレーのフェルト張りのやや柔らかい床。
そこに枕と、毛布がきちんと畳んで置かれていた。

楕円を半分に切ったような窓からは、寝転んでも夜の街がよく見えた。

僕が一度も見たことがない街。

家々には明かりが灯っている。それはとても幸福そうに見えた。あの中にいる人、人、人。

どんな幸せな人生を送っているんだろう。

明かりを見ていたらふと、晩ご飯の時間が嫌いだったことを思い出した。

いつも、ご飯を作るときに機嫌の悪い母は、僕のことをぶったり思い切りつねったりした。
酷い言葉を言われ、何も抵抗できない悔しさ、無力感。痛み。

泣きながら食べるご飯はみんなしょっぱい味がした。こんなに悔しいのに、お腹が減って、僕を殴る母の作ったご飯を食べるしかなかったこと。

やっぱり今も思い出したら涙が出てしまう。

僕は家々の明かりの下の人々が幸せであることを願った。こんな気持ちでご飯を食べる子供がいませんように。

僕はそのまま横になっていつのまにか眠っていた。

夜半、『船に揺られている感覚』で目が覚めた。







0コメント

  • 1000 / 1000

空想都市一番街

このサイトは管理人「すばる」の空想の世界です。 一次創作のBL、男女のお話、イラスト、漫画などを投稿しています。 どうぞゆっくりしていってくださいな。