心の中は深い藍色をしていた。
底に潜るほどに暗くなるのかと思えばそうではなく、ずうっと深い藍色だ。まるで洞窟の中の静かで澄み切った泉のようだ。心のダイビング。
僕はオカベさんとの思い出を探った。あれはいったい何年前のことだったろう?
頭が曇っていた。たくさんの僕のかけらがいろんな場所にいろんな時期に点在していた。でも、よく思い出してみよう。どこかにあるはずだ。そして「本音」も、一緒にそこにあるはずだ。
僕はここ何年も、幽体離脱したように体から心を遠ざけていた。ぼんやりと、悲しいことから身を守るように、解離していたのだ。記憶が曖昧なのもきっとそのせいだ。
心の底に散らかったたくさんの箱を一つ一つ見渡して記憶をたどる。オカベさんと仕事をした日々。
『令和元年』
ふとその言葉が藍色の空間に浮かんだ。
その次に、『大雨』。
そうだ、令和元年の大雨の日。
「オカベさん、用事で仕事出られなくて僕が代わった時、ちょうど大雨でしたよね。
僕に雨の中外回りさせたことをすごく気にして、その後申し訳なさそうにお菓子くれましたよね!あのお菓子美味しかったです!!」
僕がパッと顔を上げて言うと、オカベさんは笑い出した。
「よく考えて出てきたのがそこなのお?もお、すばるちゃんは〜!」
笑われて僕も何だかおかしくなってしまった。もっと言うべきことは他にあるだろう。
「他にもあります!オカベさんはあのスーパーの焼き芋が大好きだけど、子供の学費でお金がないから我慢してたこととか、中性脂肪気にしていつも鯖缶食べてたこととか、休みの日は体がだるくて起き上がれないとか、いつも疲れ果てて家に帰ってご飯を作ったら明け方まで寝ちゃうとか、閉所恐怖症だとか、電車に乗れないとか、パニック障害だとか、なのにいつも明るくて一緒にいると僕は安心したんです。オカベさんがお母さんだったらよかったな、とか思ってて…」
「お母さんにはちょっと若いでしょ!お姉さんぐらいにしておいて〜!」
僕は笑った。
「そうですね!僕は姉のように思っていましたよ。あなたのことが嫌いだなんて一度も思ったことなかった。ただの一度も!どんな人だって一緒にいれば一度くらい憎く思うこともあるでしょう。なのにあなたときたら。どうしてそんなに人を安心させられるんですか?自分もメンタル疾患持ってたのに。」
オカベさんはあはは、と笑うだけで返事はしない。
「色んなこと、少しずつ思い出せたでしょ?あたしとすばるちゃんが何回暑い猛暑を過ごしたのか、暗い冬を越えたのか。2人で冬は暗くなるのが早いから何となく落ちるよねって話したじゃない。そんな小さなことがもっとはっきりして、きっと目の前が晴れて見える日が来るよ。じゃあ、そろそろ行くね」
電車は減速を始めた。
「次は■■■〜 お降りのお客様は足元にお気をつけて…」
車内アナウンスが流れた。
「待って、まだ僕はロクなこと思い出せてないよ」
僕はオカべさんと一緒に立ち上がった。
「ううん、ちゃんとすばるちゃんは思い出し方が分かったし、本音を話してくれたじゃない。またアタシのこと思い出したら心の中で教えてね。ちゃんと聞こえてるから」
「待って、オカベさんまだ行かないで」
電車が止まり、ドアが開く。僕はオカベさんの近くに駆け寄ろうとする。
「ストップ。すばるちゃん、ここまでだよ。」
オカベさんは一歩ドアから外に出た。
僕はその時少しだけ、心が揺らいだ。このドアを一歩出たら、辛いことも何もかも終わるのだ。
「ダメだよすばるちゃん。あなたにはまだやることがあるでしょ。」
僕はオカベさんを見つめた。その姿は涙でゆらめいた。
「オカベさんは、徳永英明が好きだったから、僕、オカベさんのこと想う時聴いてるよ!またいつか、たくさんおしゃべりしたい。オカベさんのおしゃべりをたくさん聴きたい。」
僕は口をへの字にして嗚咽を漏らしながら、子供みたいに泣いた。
オカベさんはずっと微笑んでうなづいてくれた。
「またね。すばるちゃんは大丈夫!いってらっしゃい!」
そしてまたすごくチャーミングに微笑んで手を振ってくれた。
「ありがとう。あなたが大好き。」
ドアが静かに閉まった。列車はゆっくりと発進する。オカベさんは口の動きで『アタシも!』と言ってくれた。
オカベさんが遠くなる。
僕は見えなくなるまで手を振った。オカベさんもずっとあの素敵な笑顔で手を振ってくれた。
姿が見えなくなって涙を袖で拭いた時、外はもうすっかり夜になっていた。
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