ソラは扉を開けた。
眩しい光が僕の目を刺した。耐えられなくてしばらく目を閉じていた。
瞼の裏まで届いていた光がおさまった頃ソラが言った。
「目を開けて」
そっと目を開けるとそこは深い青のビロードで囲まれた一室だった。
部屋の真ん中の壁にそれはあった。
照明で注意深く照らされたそれは、まるで僕の心の中に浮かんでいるように見えた。
「エル・グレコの受胎告知。これを見に俺たちは何百キロも車で旅をした。お前、目に焼き付けただろ。この絵だけ特別で、こんな空間に展示されてた。震えたよな。」
その通りだった。僕たちは仲間とともにいろんなところへ行った。行く先々で芸術に触れるために。
島では伝統の黄八丈に触れ、あるところではルドンの絵に触れ、そしてここ倉敷では、ずっとずっと会いたかったエル・グレコの受胎告知を観たのだった。
「うん。忘れられない。またこうして観れるなんて。ここにずっと来たかった。あの時僕はこの場所に、自分の一部を置いてきた気がする。」
「俺もさ。あの時誰よりもこの感動を共有できたのはお前だけだったと思ってる。お前もそうだろ。もし俺の記憶を否定したらこの場所も埋もれちまう。俺のことを消したくても、せめてここだけは忘れちゃダメだ。お前の心が震えたことを過去だけのものにするな」
僕はソラの顔を見た。さっきまでもやがかっていたその顔は、今はくっきりと晴れて見える。ソラの顔だ。僕が好きだったソラの顔。
「ソラのことは忘れたくてもきっと忘れられないな。美しい思い出や感動にいつもお前が付いてる。厄介な男。でも、もうきっと大丈夫な気がするよ。お前は消えなくても、感動は感動だ。心の震えは僕のものだ。」
「そう、その粋だぜ。って俺がいうのもおかしいけどな。お前は1人でもちゃんと美しいよ。誰かが輝かせたわけじゃない。お前の中にいいものがあるんだぜ」
ソラは言いながら少しづつその輪郭を薄めていった。
「神戸で食べた明石焼きが美味かったことも忘れるなよ。八丈島の明日葉の天ぷら、それに」
「宿で出されたチーズフライだろ。もう一回行って食べてくるよ。ソラはもう消えるの?」
ソラの体はもう向こう側が透けるほどになっていた。
「ああ。俺が放浪癖のあること知ってるだろ。またこれから遠くへ旅行だ。元気でな」
僕は差し出された長い指の綺麗な手を握った。半透明だけど、温かみを感じた。
「ソラの手はいつも綺麗。大好きだったよ。ありがとう。さよなら」
ソラは微笑んだ。その顔が好きだった。
そして跡形もなく消えた。
空想都市一番街
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