古民家の詩人①

海辺の街の、駅前通りを一つ裏に入ったところに、その古民家はあった。

日本庭園と、2階の窓から望める海。古くからの作りを生かして今ではこの家はカフェとして使われている。

看板も出していないので知る人ぞ知る店である。訪れる人は決して多くはないけど、常連の人は足繁く通ってくれる。

愛美(まなみ)はこの古民家カフェを一人で切り盛りしていた。この家の持ち主が残してくれたお金と売上で庭と家を維持していくには十分だった。

時がゆっくり流れるこの家で過ごすことが愛美は幸せだった。


今日は大晦日。
店を閉めなくてもいつも訪れるお客さんは少ないので、愛美はあえて休業の札を出さずに、窓の拭き掃除を始めた。

昔ながらのアルミのバケツに水を入れて、よく水を絞った雑巾で木枠と古い窓を一枚一枚丁寧に拭いていく。

綺麗に見える窓も拭いてみるとこんなに汚れていたのかと思うほどで、バケツの水はあっという間に真っ黒になった。

愛美は何度か水を換え、2階の窓を全て拭き終えた。

古いガラスは今は製造法が失われた独特の加工がされている。

その不思議で美しい細工に触れ、ガラス越しに海を見つめる。

『綺麗だろ?』

あの日と同じ抑揚で、あの人の声がする。

『今はもうそのガラスを作れる職人はいない。たかがガラスだが、そのガラスひとつで景色はまるで違って見える。ずっと見つめているだけで俺はいくらでも時間を過ごせるよ』

愛美はガラス越しに海を眺めて呟く。

「…ほんとね。」



この家の持ち主はレイジという初老の男だった。

有名なミュージシャンで、アコースティックギターと体一つで世界中どこへでも出かけて行く。彼は詩人と呼ばれその作品は愛されていた。

一方、家ではいつも畑仕事などをして過ごす物静かな男だった。

畑仕事で鍛え上げられた体は細身だけど筋肉質で、髪はすっかりシルバーヘアだが精悍な顔つきをしている。
いつも年よりもずっと若く見られた。

先祖代々受け継いだ家を大切にしていたが、レイジには子供がいない。
受け継ぐ者がいないこの家を、どうせなら誰かに託せたらと考えていた。それも、出来るだけ早く。

「レイジさん、新茶届けに来たよ〜!」

近所に住む女性がよく訪ねてくれていた。
庭先で畑仕事をしているときにたまたま話をしたのがきっかけで、畑で採れた作物や、彼女の親戚が作っているという茶葉を送り合う関係になった。

「ありがとね愛美ちゃん。ああいい香りだ。今すぐお茶を淹れるから待っててくれ」

「レイジさんありがとう。はぁ、レイジさんのお家って木の匂いがしてとっても落ち着く」

愛美は無邪気に縁側に座ってニコニコしている。

他にも訪ねてきて談笑するご近所さんはたくさんいたが、レイジはこの娘が訪れた時はまるで生活に花がもたらされたように感じていた。

無邪気でおおらかで、それでいて芯の強い娘。

親子ほど歳が離れているから、まるで自分の娘のような感覚になるからかもしれない。
彼女との何気ない会話に、楽しみを感じているのだった。

しばらくするとレイジは緑茶を入れて持ってきた。

「いいね。今年の新茶もいい香りだ」

「緑茶は年によって香りも甘味も違っていいよね。親戚のおばさん、今年は特に良い出来だって。ああ美味しい」

2人で縁側に座ってお茶をすする。

「愛美ちゃん、教職過程はどうだい。そろそろ実習かい?」

愛美は大学3年生で教職課程をとっていた。将来小学校教師になるのが夢なのだ。そんな話もまるで家族にするようにレイジに自然と話していた。
レイジの自然体な姿が愛美にはとても心地いいのだった。

「うん、来月からよ。今からドキドキしちゃう。でも、早く先生になりたいからがんばる」

「そうか。愛美ちゃんならいい先生になる。きっと天職だろう。」

レイジがそう言うと愛美は嬉しそうに微笑んだ。

「レイジさんが、詩人であるように?」

「ふふ、そうだな。あるいはそれ以上に。そうだ小松菜がたくさん取れたから持って行きなさい。」

レイジは家の奥に引っ込んで、カゴに入れた小松菜をたくさん持ってきた。

「わーこんなに!茎がしっかりしてて美味しそうね。ありがとうレイジさん。今日は胡麻和えにして食べようかな。この間レイジさんにもらった胡麻がまだたくさんあるの」

両親を早くに亡くした愛美はお茶農家の親戚の家に下宿していた。どうやら少しばかり気難しい叔父叔母であるらしく、
レイジは少しでも仲が和むようにといつもたくさん野菜を持たせるのだった。

「炒め物も美味しいよ。採れ立てでアクが少ないからそのまま炒めて塩コショウだけでも甘みがあって美味しいからやってごらん」

なんとなく自分の娘のように感じてしまって、この自分の古い家にいくらでも部屋は空いているのだから、うちで下宿したっていいんだよ、なんて口が滑りそうになる。

海外公演などで一年の三分の一はいないこの家。

愛美のようないい娘が住んでくれるなら家も喜ぶだろうと思ったりもする。

「レイジさん?どうしたの?」

急に真顔になってしまったので、愛美が心配そうに顔を覗き込んできた。

「あ、いや。アマチュアの農家が作ったから不格好だけど、とれたてだから、下宿のみんなで食べて。お茶美味しかった。おばさんによろしくな」

たまにこうして誰にも入る隙を与えないような顔をするから、愛美は胸が切なくなるのだった。

父のように慕うレイジの本当の心の中は、分からない。

少し悲しいけれど、それが当然だと思い直して、愛美は笑顔になった。

「うん。じゃあまたくるわね。ありがとう」

「ああ。またね」
愛美は手を振って、日本庭園の中を通り抜け、駅の裏通りへと抜けた。

庭の戸を開けて一歩外に出た瞬間、空気がまるで違うものに変わったように感じた。

ここにしかない空気。もっとずっとここにいたい、もっとずっとレイジと話していたい。

愛美はしばらく前から自分のそんな気持ちに気づいていた。

親子ほど歳の離れたこの男を、父のように慕うのと同時に、愛してしまっていたのだった。

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