レイジが退院するまでの1週間、愛美は毎日お見舞いに来た。
退院をしてからも、頻繁に愛美は彼の元を訪れた。
愛美からの親密な気持ちを感じていたレイジだったが、彼女との心の距離は保つことを心がけていた。
自分も愛美のことは大切に思っていたけれど、死に損ないの老いぼれの身で、彼女を愛せるほど身勝手にはなれなかったのだ。
「レイジさん、今年も海外公演行くの?」
「ああ、行くよ。だいぶ体力も戻ったしね。」
ある日当たり前のようにそんな会話をすると、愛美は少し唇を噛んだ。行かないでほしい気持ちと、ライフワークを邪魔したくない気持ち。
退院してから容体は安定しているけど、見えないところで病魔はレイジを確実に蝕んでいる。
きっとこれが最後の海外になるだろう。それどころかもしかしたら、旅先で、と言うこともありうるのだった。
「愛美ちゃん、見てごらん」
そんな愛美の葛藤をよそに、レイジは海を指差した。
「海が凪いでいる」
レイジの指差す先には、波が止んで静まり返る海があった。
「俺は凪という時間が好きでな。この静寂の時しか聞こえない音を、なんと表現しよう。ずっとそんなことを考えているんだ」
「凪…」
「静寂には色んなものが含まれている。優しさも強さも。美しい時間だ」
愛美は目を閉じて音に耳をすませてみた。いつもの海と違う、波でもない、水の揺らぎのような気配を、静かな海から感じた。
「聴こうとすれば、色んな音が聴こえるのね。凪にそんなふうに気に留めたことが無かったわ。でも今レイジさんが魔法をかけたから、これからは凪は特別な時間になりそう」
愛美は微笑んで、少しだけレイジの近くに寄って座った。
レイジは微笑む愛美を見つめた。
見つめてしまった。
愛おしい、と心が鳴った。
こんなに歳の離れた娘に。
俺はもうすぐ死ぬのに。
「レイジさん…」
愛美はそんなレイジの眼差しから、全てを悟っていた。
「……愛美ちゃん、俺は…」
レイジがその後の言葉に詰まる。その時愛美はそっとレイジの体に寄り添った。
「レイジさん、もう、いいじゃない。私は大丈夫よ。たとえあなたといる時間が限られているとしても、あなたを愛させて。それでいいから。何も後悔しないわ。素直な気持ちでいましょうよ」
「愛美ちゃん…」
愛美がそっとレイジの手を握った。温かくて柔らかい手だった。
この娘は若いのに、まるで母のようにに包んでくれる。
いつだって素直な気持ちでリードしてくれるんだな。
そう思ってレイジは笑った。こんな老ぼれがこの娘の前では迷える子羊同然だ。
でも今一つの答えを出した。
「俺は君を愛しているよ」
愛美の手を握り返して、レイジは言った。
初冬の寒さの中、愛美は「人肌」の温かさを知った。暖炉の薪は燻って消えかけている。それなのに、こんなに温かい。
レイジの体は病魔に侵されているとは思えないほど筋肉が衰えていなかった。よく日に焼けた腕で、愛美を優しく抱いた。大きな手が頭を撫でてくれる。
「愛してるよ」
大好きな声に言われて、愛美は心が震えるほどの幸せを感じた。
「私も。愛してる。とても幸せよ」
そういうと愛美は今度はレイジを胸に抱き寄せてその額にキスをする。
レイジはなんだか甘やかされてるみたいでくすぐったいけれど、こんなふうに包まれたことなんてずっと無かったから、言いようのない安心感を覚えた。
「甘えていいのよ。きっとレイジさんは、甘えるのが得意じゃないでしょう?でも私には安心して甘えていいのよ。私、甘やかすのって大好きなの」
なんて娘だろう。レイジよりずっと若いのに、まるでずっと長く生きてきた女性みたいな包容力。まるで海のようだとレイジは思った。
「あ、レイジさん…すき」
だけどその時の声は若い娘そのもので。何度も名前を呼ばれながら、レイジは愛おしさで頭がおかしくなりそうだった。こんなに愛しいと思える人に今になってまた会えるなんて。
色んな気持ちや言葉や声が、吐息から空気に混じって、キラキラと光りながら消えていった。
まるで俺の命のようだ、とレイジは思った。
ぱちり、と炭になった薪が爆ぜた。
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