たった1人の母親が病魔に侵され逝ったのはまだ涼太が3歳にならないころ。
母の記憶は薄ぼんやりとしていて、はっきりしない。
自分の名を呼んで抱きしめてくれたあの人がきっと母親なのだろうと時々思い出すけれど、顔も声も今となっては曖昧だ。
叔父に引き取られ、叔父の子として育てられて10年。従兄弟だった拓也は兄になり、ずっと一緒に育ってきた。
今年地元から少し離れた大学に上がった拓也は街の方でひとり暮らしを始め、涼太は中学生になった。
家には涼太と父と祖母だけになった。
正直、寂しい。拓也が手の届かない遠くに行ってしまいそうで、涼太は寂しかった。そんなことはおくびにも出さなかったけど。
父も祖母も厳しくも愛情深く涼太を育てた。拓也と分け隔てなく愛情を注いでくれた。
ピアノが好きだった涼太にピアノも習わせてくれた。親戚の家からもらったというアップライトピアノが家にはあって、涼太はそれでピアノの練習をした。
拓也もずっと前からドラムを習っていて、いつか音楽で生きていけたらとよく言っていた。涼太はその言葉を思い出しながらピアノを弾いた。
ショパンのメロディは田舎の街の深く星が広がる夜空に溶けていく。
涼太は拓也のことが好きだった。
もちろん兄としてもそうだし、それだけでは説明のつかない「好き」もあった。
拓也が弟として自分を大切にしてくれて守ってくれる度、涼太は拓也に対して切ない様な不思議な気持ちになるのだった。
それを「恋愛感情」だと漠然と理解する様になってきたころ、拓也は家を出てしまった。
俺がもっと大人だったら、追いかけていけたのに。なんて思いながら毎日を生きた。
夏休みで家に拓也が帰ってくると連絡が入って、涼太は心臓が跳ね上がった。
やっと会える。楽しみで仕方なかった。
八月。
「うーす。久しぶり。ただいま」
拓也が土産ものを手に玄関を開けた。
「おかえり。あんたちゃんとご飯食べてた?ちょっと痩せたんじゃない?」
祖母がエプロンで手を拭きながら出迎える。
「そう?バイト忙しくてさ。ライブも始めたし、あんまり食ってなかったかも。」
拓也は玄関に座ってマーチンのブーツを脱ぐ。
「体が資本だからね。ちゃんと食わないやつに音楽もやれないよ。今週はうちでたくさん食べて帰りな。」
祖母は口調はそっけないがいつも子供達を思い遣っている。
拓也はわかった、と言ってちょっと笑う。
「ばあちゃん、涼太は?」
「ピアノだよ。最近レッスン増やしてね。もっと上手くなりたいって。自主練も早朝から学校のピアノ借りてやってるよ。ずっとピアノ漬けさ。音大に行きたいのかって聞いてもはっきり答えないんだけど。学費父ちゃんに頑張って稼いでもらわないとねぇ」
祖母はあはは、と朗らかに笑った。
ピアノ漬けか。前に聞いた時よりきっと上手くなっているに違いない、と思って拓也は涼太の帰りを楽しみに待つことにした。
夕闇が深まる頃、涼太が帰ってきた。
「ただいま。拓也、久しぶり」
ほんの半年ほど会っていないだけでこんなに成長したのかと思うほど、涼太は身長も伸びて声変わりも始まっていた。
「おかえり。久しぶりだな。お前ちょっと見ない間に随分おおきくなったじゃん。ピアノ漬けの生活なんだって?力入れてんだな」
拓也が嬉しそうに両手でわしゃわしゃと涼太の頭を撫でる。拓也はあまり愛想のいい男ではないけど、こうして涼太にはほぐれた表情を見せる。
「へへ、大人になっただろ?声もかっこいいだろ?拓也を驚かせたかった!へへへ」
子犬みたいに涼太は嬉しそうにしている。
「拓也はどうしてるの?バンドいい感じ?」
拓也が大学に上がって、高校から続けていたバンド活動にも力を入れ始めたことを涼太も知っていた。
「うん。やっぱ街にはいろんな箱があるから、面白いよ。俺もバンド漬けの毎日だな。単位落とさない様にしないといけないけどな。それよりお前、久しぶりにピアノ聴かせてくれよ。」
大好きな拓也に大好きなピアノを聴かせてくれよなんて言われて、涼太は嬉しくて目をキラキラさせながらうんうんとうなづく。
「じゃあ、拓也なにがいい?なに聴きたい?」
大きくなってもまだ小学生の時みたいに無邪気に涼太はニコニコしながらピアノに座る。
「んー、じゃあ、ショパンかな」
「わかった。じゃあ今ちょうど練習してるショパン聴いて」
そう言って静かに鍵盤に手を置くと、涼太は静かな水面の様に静まり返る。そして、その水面に波紋がそっと広がる様に弾き始めた。
ショパンのノクターン。
誰もが知ってる名曲だ。拓也は黙って演奏に聞き入った。
拓也の知っている涼太より、ひと回りも二回りも成長している様に感じた。その演奏は、心を揺さぶる何かがあった。今までの涼太になかった何かがそこにはあった。
パチパチパチパチ、と自然に拓也は拍手を送っていた。素晴らしかったのだ。
「素晴らしい、今までのお前じゃないみたいだ。すごく素晴らしい演奏だったよ」
拓也にそんなこと言われて涼太は頬を赤らめる。嬉しかった。
「ありがとう。ねえ、あのさ。俺今、ジャズピアノも習ってるんだ。即興の演奏に必要なこととか。その、拓也のドラムと、一緒に演奏したくて…」
「えっマジ?お前すごいな!どんどんすごいやつになっていくな。じゃあ、今度一緒にセッションしてみる?」
涼太はする!と言ってへへへ、とはにかんで笑った。
「拓也と一緒に音楽してみたかった!!楽しみ」
そうこうしてるうちに父も帰ってきて、その日は飲んだり食べたりして、賑やかに過ごした。
夜半。
遅くまで拓也と話をしていた涼太は興奮して眠れなくて、もうとっくに隣の布団で寝息を立てる拓也の顔をそっとみていた。
俺の兄ちゃん。
いつも俺を守ってくれる拓也。
街へ出て自分のことなど忘れてしまうのではないかと怖かったけど、拓也はちゃんと涼太を可愛がってくれた。
涼太は少し安心して、寝返りを打つ。
だけどなんだか胸がモヤモヤして、切ない。
しばらく目を閉じた後、眠るのを諦めてそっと布団を出た。
部屋の窓をそっと開けベランダに出る。暑さが和らいできた八月の夜の風にあたる。
空には明るい月。
月明かりに透けるちぎれ雲。
こんな夜道をいつも手を引いて歩いてくれた拓也。
「大丈夫だよ。兄ちゃんが守ってやるからな」
見上げた拓也の優しい顔は、月の光を背に受けて、優しくて、頼もしかった。
俺の心はずっと、あの時から…
「うん…涼太?眠れないのか?」
その時拓也が目を覚ましてベランダを覗く。
「あれ、ごめん。起こしちゃった。…へへ」
手すりに寄りかかってはにかむ涼太の笑顔。
月明かりに照らされたその顔は、やけに大人びて美しく艶やかに見える。
拓也はその姿にぼんやりと見惚れる。しばらくしてハッと我に返って目をこすった。
「びっくりした。お前って綺麗だよな。見てたらなんかぼーっとしちゃった。」
そんなことを言われてびっくりする涼太。
「へ?な、なにそれ。変な拓也」
「ふぁ〜あ…俺は、疲れたから寝るぜ。お前も夜更かしもほどほどにしとけよな。おやすみ…」
拓也は眠気に勝てない様子ですぐ眠りについてしまった。
「綺麗って…」
好きな人にそんなこと言われたら、嬉しいに決まってる。
いつか、もっと見惚れてくれる日が来たらいいのに。
小さくため息をついて涼太は布団に戻ると、ようやく布団をかぶって眠りについた。
拓也は1週間ほど帰省して、また大学近くのアパートに戻って行った。
帰り際、涼太の頭をくしゃくしゃと撫でて
「セッションやろうな!楽しみにしてるから、腕を磨けよ」
と言った。
「うん!絶対やろうな!拓也も練習頑張れよな」
涼太が笑顔を見せると、拓也は涼太のこぶしに自分の拳をタッチして
「ああ、絶対な!」と言った。
いつか、もっと拓也を見惚れさせるような演奏をする。そう誓って、中学生の涼太はまたピアノに情熱を向けるのだった。
2人に悲しい運命が待ち受けているのはまだ先のお話。
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