ショパン 幻想即興曲 

11月のこと。

拓也のマンションを出ると、悠斗は池袋駅までの道を歩いた。

すっかり夜だが、サンシャイン通りはこれからさらに活気を帯びてくる時間だ。

今日は冷える。悠斗は上着のポケットに手を突っ込んで、吐く息の白さに冬の寒さを感じていた。

ふと、何かに違和感を感じた。
それが何か、悠斗は一瞬分からず立ち止まった。

今、「何か」とすれ違ったのだ。

急いで振り向くと、人混みに紛れ、その「何か」はなかなか見つけられない。

悠斗は心臓が波打った。

そんなはずはない。

走って探したけれど、もうそれはどこかへ行ってしまった。
そんなはずはないんだ。

黒髪に、鋭い目。

マスクをしていたけど、あれはさっき拓也の家で感じたあれと一緒だった。

涼太だ。

今日悠斗は拓也の家で、拓也の弟の涼太の写真や動画を見せてもらったのだ。

あの時感じた、心に深く刺さるような痺れる感じと同じだった。

いやいや、まさか。涼太はもう故人だってのに。

悠斗は何かの間違いだと首を振って、また駅に向かった。遺体が見つかっていないということと、演奏している姿があんまり印象に残ったから、敏感になっていただけだろう。

それにしても、拓也さんの弟はかっこよかったな。
そんなことを思いながら西武線に乗った。



「タク、落ち着いて聞けよ」

馴染みの、サンシャイン通りの一つ裏通りにあるバーのマスターから電話がかかってきたのは夜11時過ぎだった。
「どうした?そんな焦って」

拓也はシャワーから出てビールを一杯やっていた。

「おまえさ、俺のこと頭がおかしいって思うかもしれないけど、俺今日見たんだよ」

「なにを?」

「涼太だよ」

拓也は一瞬マスターの言ってる意味が分からなくてぽかんとしていた。

「なに言ってんの?あいつは死んだんだぞ」

「知ってるよ。だけどな、同じなんだよ、あいつと。俺が見間違えるはずがねえ。マスクしてたけど、一瞬外したんだ。その時の顔…あいつなんだよ。ソックリさんとかじゃねぇ。顔に傷跡があったけど、あれは涼太だ。」

拓也は持っていたビールの缶を落とした。

「おい、聞こえてるか?さっきサンシャイン通りで見失っちまった。まだどっかにいるはずだ。」

涼太?

拓也は上着もろくに着ずにマンションを飛び出した。


寒さを感じている余裕なんて無かった。拓也はサンシャイン通りを行く人々をくまなく見渡し、走り、裏通りもくまなく走り回った。

(ちくしょう。やっぱりマスターの見間違えか?)

拓也は肩で息をしながら裏路地で壁を叩いた。いるわけなんかないんだ。

その時、ふと通りかかった、カーキ色のコートを着た男が拓也の前で止まった。

拓也は顔を上げると、目を見開いて男を見つめた。

そんな。

「お兄さん、大丈夫?具合悪いの?」

男は近づいてきて拓也の顔を覗き、マスクを取った。

「りょう…」
「すごい息上がってるじゃん。しかも寒そう。俺とあったかいところ行く?」

拓也は何も答えることができなかった。目の前にいるのは紛れもなく死んだ弟の、涼太だ。

だけど、涼太の方はまるで拓也のことを知らないかのように話ししてくる。左頬には縦に深い傷の跡。

しかも、男娼をしているようだ。

「いや…その、おまえ、名前は?」

やっとの事で声を絞り出した。

「名前なんて必要?んー、じゃあ、タクヤ。」

タクヤ?

「なんちゃって。俺名前無いんだよね。覚えてないんだ。だからみんなに勝手につけてもらってる。お兄さんは何がいい?」

「覚えてないっておまえ…記憶無いの?俺のこと覚えて無いの?」

涼太は拓也の問いに不思議そうな顔をして、ますます拓也の顔を覗き込んできた。

「悪いけど覚えてないや。前にヤッたっけ?」

「いやそうじゃなくて、いつから記憶無いんだよ」

「いつからって、そんなのどうでもよくない?…まあ、6年くらい前から昔の記憶は全部無いよ。それよりさ、俺を買ってよ。寒いし。お兄さんいい男じゃん。いいっしょ?」

なんてことだ。
拓也は目の前の現実を頭で追いかけるだけで精一杯だった。

記憶喪失。しかもそれは事故が起きたあたりからだ。
どうすればいいのか。
拓也は答えられずに涼太を見つめていた。

「なんだよ。その気無いのね。じゃあ俺行くわ。」

「ちょ、ちょっと待った!」

行きかけた涼太は足を止めて振り返った。

「おまえを買う」

拓也は自分が何を言ってるのか訳がわからなかった。

「そうこなくっちゃ」
涼太はぺろりと舌舐めずりをした。

「俺んちに来ないか?」

「えー?悪いけど俺、家に行くのはお断りなんだよね。前に殺されかけてトラウマ。近くにちゃんとしたホテルあるから行こ。そこなら顔見知りだから。」

涼太はいたずらっぽく笑って、拓也の手を引いて歩き出した。

「俺さ、おまえのこと知ってるんだ。話しないか?」

「へえ?どんな?」

「おまえ、俺の弟なんだよ。覚えて無いと思うけど」

涼太は振り返って笑った。

「みんなそう言うよ。俺のこと知ってるって。俺の親だとか、弟だとか、俺を独り占めするのにみんな頑張ってるよね。でもダメだよ。俺は誰のものでもないから」

「ちがっ…」

気づくと涼太が使ってると言うホテルに着いた。

拓也は逡巡した。だけどここでこいつを逃したらもう見つからないかもしれない。

金だけ渡して、中でゆっくり話すことにした。きっと話くらいは聞いてくれるだろう。

そしてもしかしたら記憶が戻るかもしれない。

「3階。エレベーター来たよ」
涼太に手を引かれてエレベーターに乗った。

ドアが閉まると、涼太はグイと拓也を壁に押し付け、キスをしてきた。
「んっ…!」

絡みつくようにキスをしてくる。

「…お兄さん、やっぱいい男だね。俺すっごい興奮しちゃってる。ほら触って」

拓也の手を自分のそこへ導き、ジーンズの上から触らせた。

「ね?」
「……っ!」
弟のそんな姿に、拓也はどうしていいか分からなかった。しかも、拓也の知らない、大人になった涼太。

部屋の鍵を開けると、涼太は拓也の手を引いて中に入った。

「お兄さんかっこいいから、俺もう我慢できないや。こんなことあんまり無いんだけどなぁ。あ、リップサービスじゃないよ」

涼太はコートとセーターを脱ぐと、拓也のパーカーとTシャツを脱がせてきた。

「ちょっと待て、俺、おまえと話したいことあるんだ。金は払うから、ヤるの無しで話しよう」

「え?…んー、ダメだよ。さっきも言ったでしょ。俺お兄さんとヤりたいの。話なら聞くから、ね。俺がこんなこと言うの珍しいんだよ、マジで」

拓也のTシャツを捲り上げて涼太は乳首にキスをしてくる。

「……っ、」
「感じてるんだ。もっと気持ちよくしてあげる…」

「っだー!ストップ!!」

拓也は涼太の両肩を掴んで引き離した。

「分かった、ヤるからその前に話しさせてくれ!頼む!」

「えー?なんだよ、白けるなあ。」

涼太は拓也の腕を払うとふてくされたようにベッドに寝転んだ。

「もうそんなに言うならいいよ、話せば?」

涼太はベッドで頬杖をついて、どうぞお好きに、といった感じに拓也を見た。

拓也はホッとしてTシャツの乱れを直すと、部屋の椅子に腰掛けた。

「お前のことを話すよ。お前が覚えていない過去のこと」

涼太はふぅん、と適当に返事をした。

「群馬県の、山ん中だ。お前はそこで生まれ育った。俺の6歳下の弟。名前は橋沼涼太。」

涼太は適当に前髪をいじりながらうんうんとうなづいている。

「お前は3歳の時に両親を亡くして、俺の婆さんとオヤジに育てられた。俺とお前はいとこなんだけど、その時から兄弟として育ったんだよ。
オヤジたちは俺らを分け隔てなく育てた。お前は昔から音楽が好きで、ピアノを習ってた」

ふんふん、と聞いていた涼太が一瞬動きを止めた。ピアノ、という言葉を聞いた時だ。

「お前が17歳の時に、俺はお前とバンドを始めたんだよ。覚えてないか?」

うーん、と涼太は首を傾げた。

「音楽なんてやったことないもん」

「やってるんだよ。お前があんまりすげえから、メジャーのオファーまで来た。けどそんな最中、お前は実家の近くの峠でバイク事故を起こして、その勢いでダム湖に落ちて死んだんだ。
バイクだけで死体は上がらなかったけど、いくら探しても待ってもお前は見つからなくて、俺たちはお前が死んだんだって思った。」

涼太は黙っていた。

「…今まで聴いた中で一番面白い話だね。お兄さん名前はなんて言うの?」

「橋沼拓也」

「タクヤ?」

涼太はびっくりしたように目を開いた。

「へぇー偶然。俺、名前を聞かれたらとりあえずタクヤって答えてたんだ。なんかしっくり来ててさ」

「それは俺の名前を頭のどっかで覚えてたんじゃないのか?俺は嘘を言ってないぜ。お前の顔の傷、前はなかった。きっと事故の時ついたんだ。」

涼太は黙った。なにかを考えているようだった。

「俺本当に何にも思い出せないんだよね。けどお兄さんが言ってるのが本当なら、面白いね。それに、ピアノか」

ふうん、と涼太はなにか思うことがある様子だった。

「俺んちにはお前の写真も動画もある。見てほしい。最初っからそうしたかったのに、お前が家が嫌だって言うから」

「そりゃあ仕方ないよ。さっきも言ったけど、家行ったら殺されかけたことあるから怖いもん。でもお兄さんはなんとなく、そういうことする人じゃない気がしてきた。その写真見たい。でもそれより」

拓也はヤりたいと言い出すのかと構えていた。話をしてケムに巻いてしまおうと思っていたからだ。

だけど違った。

涼太は前を向いたまま静かに言った。

「ピアノ弾きたい」


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