闇で見守る者① 花売りのコウタと伊織

スラムで生きていくには必要なことがある。

たとえ人に受け入れられなくても、危険な目なあっても、その日一日中何も食べ物にありつけなくても、

「生き残る」

ただそれだけに食らいついてしぶとく諦めずにいること。

生き残るという気持ちを忘れないこと。


「あなたのお父さんは、裏社会のちょっとした権力者なの。あなたには強い人の血が流れてるのよ。でもね、残念ながら私たちはあそこにはいられないの。
母さん、あの人の正妻じゃなくて愛人だから。ごめんねコウタ。本当ならもっといい暮らしができたかもしれないのに。愛人とその子供なんて、あそこにいたら殺されてしまうのよ。せめて私たちは貧乏でも楽しく、誇りを持って生き残りましょう。忘れちゃダメよ。必ず生き残るの」

コウタはその話を、小さな時から何度も聞いて覚えていた。少し大きくなってその意味がわかった時、母はもうこの世にいなかった。


自分の境遇を呪ったことはない。

権力を持つ人の子に生まれたのに、などと思ったことはなかった。
コウタはただ慎ましく静かに、母と暮らせればそれでよかった。父がどんな人か気になったことはあるけど、権力に興味はなかった。
コウタはそういう子だった。

母が生きていた時は、母は料理人として働き、コウタはただ同然の金で新聞配達や掃除のアルバイトをして生計を立てていた。
しかし母が病気で亡くなってからコウタ1人の稼ぎだけではとても生きていけなくなった。

スラムで子どもが1人で生きていくのは難しい。

でも、諦めてはいけない。
「生き残る」

コウタに刻まれたこの言葉が、選ばせた道は「花売り」

言葉通りではなく、自分の花を売る

つまり売春をして生きていくことにしたのだった。


最初は1人で客をとっていたのだが、危ない目にあうこともあり、派遣型の店に所属することにした。
こういう店ならバックにマフィアがついているから、少なくとも1人で活動するよりは安全だ。

コウタは恵まれた肉体に、物腰柔らかくおおらかで優しい性格だったので、癒し系なキャラとして人気があった。客は男女関係無く取った。どんな役割でも演じた。

やがてコウタには太客が何人か着くようになった。みんな癒しを求めている客ばかり。コウタは膝枕をしたりマッサージをしてあげたり、優しい言葉をかけたりして、性的サービスと共に彼ら彼女らの求めに答えた。

やがて、17歳の時。
新規の客からの指名が入った。

「新規なのに指名なんて、どっかでお前の評判でも聞いたのかね。場所もモーテルじゃ無くてメインストリートのジャスミンヒルだって。金持ちだろうね〜!しっかり掴んどくんだよ!」

ドラァグメイクバッチリの支配人が大きくカールさせた金髪を揺らして嬉しそうに言う。

新規で指名なんて初めてだ。自分の客の誰かと知り合いなのだろうか。コウタはそんなことを思いながら、スラムの高級ホテル「ジャスミンヒル」に向かった。


「プリンスクラブのコウタです。」
客室のインターホンを押して名乗ると、男の声が返ってきた。

「…入れ。」
その冷たい響きに少し緊張したコウタはゆっくりとドアを開ける。

中では長髪の黒いスーツを着た男が煙草を吸っていた。

「初めまして、コウタです。ご指名ありがとうございます」

ニコリと優しい微笑みでコウタが挨拶をする。
男は表情を変えないまま煙草をもみ消した。

「お前の評判は聞いてる。さて、と」

男はソファに腰掛けるとネクタイを外す。

「今日は1日お前を買う。とりあえず先にゆっくり風呂でも入ってこい。」

「え?あ、はい…あの、一緒に入りますか?」

「いや。俺は後で入るから。」

珍しい客もあるものである。大抵の客は性急に求めてきたり、一緒に風呂に入るのを望むのに。

コウタは客の言うように風呂に湯を張り、1人で風呂に入った。
仕事で来てるのに1人で風呂に入るなんて、妙な気分だった。

しばらくしてコウタは風呂から出た。ジャスミンヒルにはガウンが備え付けてあるので羽織る。長身なコウタには少し丈が短い。

「お先にありがとうございます。お湯、新しく張っておきましたので、どうぞ」

ニコッと微笑みながらコウタがいうと、男はおう、と立ち上がる。

立ち上がって気づいた。コウタも長身だが、男はさらに輪をかけて背が高い。体つきもかなりがっしりしている。マフィア関係の人かな…と思いながらその男とすれ違う。
タバコの匂いに紛れて、ふわっと花のような香り。
はだけた胸元にはタトゥーが見えた。

男が風呂に入っている間にコウタは滅多に入ることのないジャスミンヒルの客室内を観察したりしていた。

スラムにありながら、その内装の高級感、一流のアメニティの充実ぶりは目を見張る。
部屋には小型の冷蔵庫も備えてあって、シャンパンや色々なドリンクが入っていた。

あのお客さん、風呂から出たらお酒飲むかな。グラス、冷やしておこう。

コウタは持ち前のホスピタリティを発揮して色々と気を配った。

やがて男が風呂から出てきた。

「ふぅ…」

腰にバスタオルを巻いて、長髪をタオルで拭きながら男は部屋に戻ってくる。

その体に、コウタは思わず喉を鳴らした。

服を着てても鍛えてることは分かったが、裸のその胸は想像を超えて美しく逞しい。無駄なく筋肉がついた体にはドラゴンや荊棘などのタトゥー。
その姿はとてもセクシーだった。

「ミネラルウォーターをくれるか?喉が渇いた」

ぼんやりと見惚れていたコウタはハッとして、冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを出した。

「氷入れますか?」
「いや、そのままでいい。」

手渡されたミネラルウォーターをグビグビと飲むと、男はガウンを羽織ってフカフカのソファに腰掛けた。

「さて…そういえば名前がまだだったな。俺の名は伊織。こっちへ」

伊織、とは名前だろうか名字だろうか。コウタは手招きされて、伊織の隣に座ると微笑みかけた。

「伊織さん、俺のことは、ご存知だったんですか?」

「…ああ、人伝に聞いていた。」

そこで伊織が黙ってしまったので、コウタは困って次の言葉を探した。

「俺を選んでくれる人は、癒されたい人が多いんです。伊織さんも、マッサージや膝枕、しましょうか?」

伊織は黙って鋭い目でコウタを見てくる。コウタはまたドキリとして無意識に喉を鳴らした。

「いや…俺はいい。それより、お前がここに横になってみろ」

伊織が自分の太腿をポンポンと叩いてコウタを促す。

「え?お、俺?」

伊織はうん、とうなづく。

そしてじーっとコウタを見ているので、コウタは言われたように伊織の太ももにそっと横になった。

膝枕する方だったのに、膝枕されている。コウタは慣れないことでぎこちなく横になっていた。

「緊張しなくていい。力を抜いて。」

伊織の手が優しくコウタの頭を撫でた。いつもそんなことをするのはコウタの方なのに、まさかのことに驚きながらも、撫でられることがだんだん心地良くなってきた。

「あの…こんなこと、されたことなくて…」

「どんな気分だ?」

「とっても気持ちいいです。なんだかか安心する」

「そうか。ならずっとしてやる。眠ってもいいぞ」

何が起きてるのか?
コウタは混乱しながらも心地よさにしだいにまどろんでいく。

「伊織さん…」

「…なんだ?」

「ごめんなさい、すごく気持ちよくて、眠い…」

コウタは心地よさに抗えずに眠りに落ちて行った。
   

次に目が覚めたのは、ベッドの上だった。伊織の胸にくっついて目覚めた時、コウタは状況を飲み込むのにしばらく時間がかかった。

コウタが目覚めたのを感じ取って伊織も目を覚ますと、伊織はコウタの体を引き寄せて、撫でながらギュッと胸に抱く。

(なんだこれ?いつの間にベッドに…?)

膝枕で寝てしまったコウタを伊織はベッドに運んだのだろう。決して体が小さくないコウタを持ち上げて運んだのかと思うと驚きを隠せない。

「…起きたか?」

「は、はい、すいません、おれ寝ちゃって。重かったでしょう?」

「そんなことは大したことじゃない。ともかく今日は1日お前を買ったんだ。好きなだけ寝て休め」

確かに一日買ってくれたのはありがたいけど…コウタは少し逡巡してから言葉にする。

「あの…セックスはしないんですか?俺ずっと撫でられて寝てばかりで。まだ伊織さんに何もできていない」

コウタはそっと伊織の胸に手を当てると、唇を這わせる。

「俺、どっちでも出来ますから…伊織さんは、どっちが好きですか?」

伊織はぴくりと動いたようだったが、すぐにコウタの手を掴んで胸から剥がした。

「いいんだ。今日はお前がゆっくり休むところが見たい。そのために買ったんだ。俺に甘えてゆっくりしてくれ。それとも、甘えるのは嫌いか?」

コウタは首を振る。

「そんなことないです。おれは甘えるの慣れてなくて…でも、甘えさせてくれて心地いいです。伊織さんがそう言ってくれるなら、ゆっくりさせてもらいます。」

「ああ。今日は甘えるのが仕事だと思え。もう少し寝てもいいぞ」

本当に変な客だ。
コウタは狐に摘まれたような気持ちになりながらも、優しく撫でられる手が心地よくていつのまにか気持ちも緩んで本気で甘えていた。

日頃の疲れも溜まっていたし、寝たり起きたりを繰り返しながら時々伊織と会話した。

そして結局性的なことは一切無しで、時間がやってきた


「腹減っただろう。ここのレストランを予約してあるから食事をしていこう。」

新しいシャツに腕を通し、ネクタイを締めながら伊織が言った。

ジャスミンヒルのレストランといえば予約が取れない高級店として有名だ。

「おれの奢りだから好きなだけ食べればいい」

コウタはそんな…!と言いながら、胸の前で手を振って断ろうとしたが、腹がグーと音を立ててしまった。

「あ…、あはは…」

笑って誤魔化そうとしても恥ずかしくて顔が赤くなってしまう。

「ふふ。」

伊織は笑ってコウタを撫でた。

「あの、…ご馳走になります…」

伊織の前だとコウタのしっかり者癒し系キャラも形無しだ。

そして2人は部屋を後にしてレストランに向かった。


「うっわあ〜!すごいご馳走…!」
次々に運ばれてくる料理に、コウタは目を丸くする。

「あの、本当にありがとうございます。いただきます…!」

コウタが本当に美味しそうに料理を平らげる様子に、伊織はペリエを飲みながら微笑む。

「このオムレツ、トリュフの味がしますね。すごく美味し…」

とコウタが顔を上げて伊織を見てみると、実にマナーよく綺麗に食事をしている。綺麗で長い手指の美しい所作はまるで絵のようだ。

「どうした?」

「いえ、伊織さん、すごく綺麗に食事されてるなぁって…すいません俺、マナーとかあまりよく知らないので、恥ずかしいな」

伊織は笑う。

「マナーなんて気にするな。好きなように食べればいい。そのための個室だ。それにしても、トリュフの味を知っているとはなかなかだな。どこかで食べたのか?」

シャンパングラスに注がれたペリエを飲む姿も伊織がやると美しい彫刻の様だ。所作がとても美しい。育ちがいいのだろうとコウタは思った。

「亡くなった母が料理人をしていたので、時々珍しい食材を頂いてきたんです。俺の家はとても貧しかったのですが、そのおかげで色々食べられたんですよ。トリュフもそうですし、フォアグラも、…あと、カラスミやキャビアなんかも食べさせてもらえました。いい思い出です」

コウタが言う。母と食べた身の丈に合わない高級食材の味は、大切な思い出だ。

「ふむ。体験は何にも変えられない財産だな。お前は料理をするのか?」

「いえ、俺は母の姿を見ていたのに、どうも料理が下手で…だから、母が亡くなってからこんなに美味しい料理、本当に久しぶりにいただきました。伊織さんには感謝してもしきれませんね」

母のことを思い出すと、自然と優しい気持ちになっていた。コウタがそんな気持ちが現れた優しい微笑みをすると、伊織は珍しく顎に手を当てて眉間に皺を寄せ、下を向いた。

「伊織さん?」

「…あ、ああ。お前が喜んでくれてよかったよ。」

顔を上げた時はさっきまでの大人の余裕のある伊織であった。

そしてコウタはそれから腹一杯美味しいものをデザートまでご馳走になった。


ジャスミンヒルのエントランスで。

「今日は本当にありがとうございました。また、もし指名したくなったらよろしくお願いします。」

「ああ。じゃあな、コウタ」

伊織は長い指でコウタの髪を撫で、おでこにキスをした。

「…あ、」

なんだかわからないけど、コウタは顔が赤くなってしまう。

「またな」

伊織は今日1番の気さくで明るい笑顔を見せると、メインストリートの人混みに混ざり、そのうち見えなくなっていった。






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