半歩前を歩く伊織の大きな手が、子どもの手を取るようにしっかりコウタの手を握っている。
恋人というよりまるで子供が迷子にならないように守る保護者のような感じだ。
「今日は俺が料理をするから、地下のスーパーで買い物をしてから部屋に行く。何か食べたいものはあるか?」
「えっ?料理?」
ポカンとするコウタに伊織は微笑む。
「ああ。プロではないからお前の母親には及ばないが、俺も料理が趣味でな。自炊ができるように今回はマンションを借りた。今日は美味いものを食べてのんびりしたらいい。口に合えば、だがな」
伊織には今日も驚かされる。
仕事に派遣された先で、料理を作ってくれる人なんていない。
どうやら今日も、コウタをゆっくりさせることが目的のようだ。
「あの、えっと…びっくりしました。まさか、料理作ってくれるなんて予想もしてなかったので…好きなもの、なんだっけ、ええと…伊織さんが作ってくれるなら、なんでもいいです。」
「本当か?嫌いなものやアレルギーは?」
伊織が振り返って顔をのぞいてきて、コウタはまたドキドキしてしまった。
「えーと…あ、俺、キウイ食べると喉が痒くなるんですけど、他には何にもないです…好き嫌い、全然ないな。」
自分のことを振り返って考えることなどほとんどないから咄嗟のことで慌ててしまったけど、コウタは心を落ち着けるようにして答えた。
「キウイか…果物アレルギーがあるのかもな。分かった。今日はチョコレートのデザートにしよう。」
伊織が言ったところでエレベーターは地下に着く。ドアが開くと、そこには高品質の品物が揃うスーパーがあった。
「うわあ、こんな商店見たことない…ここ、もしかしてお金持ちの人だけが入れるところですか?」
「まあな。会員制のスーパーだ。スラムで新鮮な食材が手に入る場所はそう無いから、重宝する。さて、一緒に回ろう」
伊織はカートにカゴを乗せて野菜売り場へ押していく。
「あ、俺押します」
「いや、いい。お前は…そうだな、俺の腕に掴まっていろ。ここは広いから、ちゃんとそばにいろよ」
「は、はい…」
子どもみたいだな、と思いながらも、コウタは言われた通りにカートを押す伊織の腕に掴まる。
伊織からしたら一回りほど歳下とはいえ、こんな背も大きなコウタを子どもみたいな扱い。
でも、それがなんだか新鮮でくすぐったい。
伊織が次々に品物を選んでカゴに入れていく。
「何か食べたい物があったらなんでも買っていいぞ。」
コウタはまるで宝の山を見ているような気持ちだった。
新鮮な食材の数々。子供の頃母と行った商店にはこんなに豊富な食材は売っていなかった。きっと母親がここに来たら、とても興奮して喜ぶに違いない。
そんなことを思ったら少し寂しくて、優しい気持ちになった。
ふと、お菓子コーナーに目が行く。
「あ…」
思わず声が出てしまった。
そこには、貧しい子ども時代の特別な時に、母が買ってくれたカラフルなグミが並んでいた。思わずぼんやりと見惚れてしまう。
「欲しいのか?いいぞ」
伊織に話しかけられてハッと我に帰る。
「あ、いや、…アハハ」
コウタが誤魔化して笑うが、伊織は真面目な顔をして目を覗き込んでいる。
「遠慮するな。これか?」
「あっ違う、隣のやつ!……です…」
咄嗟に子どもみたいな声が出たことに自分でも驚いて、コウタはまた赤くなってしまった。
「これだな。」
ポン、とカゴに入れられたカラフルなクマの形のグミ。
子どもの頃の嬉しかった記憶が蘇る。
「フッ、嬉しそうな顔だな。」
伊織に言われるまで自分の表情が緩んでいることに気づかなかった。
大きな手でポンと頭を撫でられる。
「…へへ」
コウタは思わず誤魔化すことも忘れて素のままで微笑んだ。とても嬉しかったのだ。
たくさんの食材を買うと、伊織1人では持てないのでコウタも紙袋を抱えて2人でエレベーターに乗る。
「悪いな。何か…買いすぎたようだ」
伊織が珍しく恥ずかしそうに眉根を寄せている。
「何か、お前の嬉しそうな顔見ていたらテンションが上がってしまった。たくさん作るから腹一杯食べてくれ。余ったのは持ち帰るといい」
恥ずかしそうな伊織が新鮮で、コウタは微笑む。
「たくさん買ってくれてありがとうございます。料理すごく楽しみです!」
エレベーターが最上階に着く。
そのフロアは一部屋しかない、いわゆるスイートルームであった。
広いアイランドキッチンが備わっている。
伊織は紙袋をそこに置く。
「俺は料理を始めるから、お前はゆっくり好きに過ごしてくれ。テレビもあるし、映画もいくらでも見放題だし、疲れていたら寝てもいいぞ」
「そんな、俺も何か手伝います」
仕事に来てまさか自分だけゴロゴロするわけにはいかない。
「気を遣わなくていい。俺が好きでしてることだから気にするな。」
そういうと伊織はジャケットを脱いでワイシャツの袖をまくると黒いエプロンをつけた。
鍛えられた体、腕にはタトゥー、それに黒いエプロンがとても似合う。
「えっと、じゃあ、この部屋の中を見て回ってもいいですか?すごく綺麗なところだから探検した…」
言いかけて「探検」ってなんだよ子供か、と心の中で自分にツッコミを入れるコウタ。
「…探検、じゃなくて、観察したい、です」
伊織が微笑む。
「ああ。見て回るといい。ここは最上階だから、景色もいいぞ」
そう言われてコウタは部屋の「探検」を始める。
広いバスルーム、洗面所、綺麗なトイレ、心地よいソファ、リビングにはテーブルセットと、フカフカのソファに大画面のテレビ。
そしてベッドルームにはキングサイズのベッドが一つ。
今日は泊まりで指名されているので、ここで伊織と寝るのだな、とコウタは思った。
ベッドルームのカーテンを開けると、床から天井までの大きなガラス窓。
そこから見える景色は、コウタが生まれて初めて見る景色だった。
サイバーパンクなスラムの天井を突き抜けたここからは、荒野を走るトレインの線路がどこまでも続き、地平線の向こうに消えていくのが見える。
あの先に、メインシティがあるのだ。
コウタは息を呑んだ。
足元には自分が住んでいるスラム。混沌とした黒。
空は青く太陽は温かく、荒野は不毛で果てしなく壮大だ。
「わあ…」
コウタはベッドに腰掛け、その光景に圧倒されていた。
この景色を前にしたら、スラムも自分も、とてもちっぽけなものに思えた。苦しいことも何もかも、この世界の中ではほんの小さな小さなことなのだ。
コウタはしばらくその景色を見た後、伊織の元に戻った。
「伊織さん、景色がすごくよかったです。俺、生まれて初めて見ました」
アイランドキッチンの横にある椅子に座って、コウタは言った。
「そうか。世界は広いだろ。スラムの外にも世界は広がっている。興味は湧いたか?」
「はい。いつか俺もここを出て違う街へ行ってみたいです…うすうす、思ってはいましたけど、こんな景色を見たら余計にそんな気持ちになりますね」
普段の客には話さないようなことを話ししている。コウタは伊織に自然体になりつつあった。
「いいことだ。お前はまだ若い。叶えたいことはいくらでも叶えられる。生き方も一つではない。想像を超えた人生もたくさんある。」
伊織は大切なことを言っている。コウタは今聞いている言葉を忘れたくないと思った。
話しながらも伊織は手早く料理の仕込みをしていた。
「伊織さん、俺も手伝っていいですか?芋の皮を剥くとか、野菜を切るのは得意です。…もしお邪魔じゃなければ。」
伊織は自分を見上げながら言ってくるコウタに、笑ってうなづいた。
「じゃあ頼もうか。たくさん買ってしまったから、骨が折れるぞ。」
「はい!任せてください。仕込みはよく母としましたから。なんだか楽しい」
そしてコウタは伊織と並んでキッチンで仕込みを手伝った。
誰かとキッチンに立つことが久しぶりで、その相手が伊織で、心が幸福感で満たされた。心から楽しいと思った。
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