あれは、10歳の誕生日。
学校が終わってからそのまま塾へ行き、暁音が自宅へ戻ったのはすでに日が沈んだ後だった。
運転手が家の前に車を停めると、不思議そうな顔をして邸宅を眺めている。
「あれ?旦那様たちもうお帰りになってるはずなのに、家が真っ暗ですね…ちょっと様子を見てきますから、坊ちゃんはここで待っていてください」
運転手がそう言って邸宅の方に歩いていくのを暁音は見ていた。
寒空の下、コートを羽織らず出た運転手は両腕を擦りながら足早に玄関へ向かい、チャイムを鳴らしたようだ。
両親が暁音の帰るこの時間に何も言わずに出かけることなど無い。
暁音も心配になって動向を見守る。
中々返事がないことに業を煮やしたのか、運転手がドアノブを握るとそれは簡単に開いた。
驚いたような表情をして、中に入っていく運転手。
そしてドアが閉まってから10分以上経ったが何も動きがない。
暁音はどうしたものかと待っていた。警察を呼ぶべきか。
だが、今日は自分の誕生日だ。もしかしたら大人がみんなでサプライズ計画しているなんて可能性もあるかも…
なんて子どもらしく平和なことも考えながら、暁音は車を降りた。とりあえず玄関から中を覗いてみることにしたのだ。
風が強い。しっかりコートを着込んでいるけど、顔に当たる冬の風は突き刺さるように冷たい。
暁音はドアノブを握る。それは運転手の時と同じように簡単に回った。
そっとドアを開けて中を覗く。
中は明かりが全て消えていて真っ暗だ。
中に入ると、暁音は慎重に辺りを見回した。
「お父さん?お母さん?いないの?」
声は広い家の中に響くだけだ。
運転手の姿さえ見えない。何かがおかしい。
そう思った時、奥のリビングのドアの前に光るものが落ちているのを見つけた。
駆け寄ってみると、それは運転手の制服のボタンだった。
拾い上げてみると、何かヌルッとした感触。
手のひらに乗せて天窓から入るわずかな光に照らしてみると、それはドス黒い液体のようだった。
「え…?これって…」
カターンと乾いた音を立ててボタンが手から落ちる。液体は手にこびりついている。
心臓が嫌な音を立てて高鳴る。
目が慣れてきて壁の表面が見えてきた。血のようなものが飛び散ったり擦れた跡。そして手形。
「…ハッ、…ハァッ…ハァッ…」
呼吸が乱れる。
家を出なくては。
踵を返して玄関に向かうが恐怖で足がもつれてしまった。
転倒した先、キッチンのドアが少し開いていた。
暁音は目を見開いたままその光景を見る。
それは2度と忘れられない恐ろしい光景
「おか、お、お母さん…」
ドアを開けてよく見る。
血溜まりのキッチンの壁にもたれて、胸に長い包丁を突き立てられ、絶命している母だった。
ハッ、ハッ、ハッ…
呼吸が、うまく息ができない。
フラフラと立ち上がると、足元の血溜まりに足を取られ再び転ぶ。
すると床で倒れ目を開けたまま絶命する運転手と目が合う。
「…っ!!ひぃッ…!!!あ、あ…!!」
暁音はパニックに陥り、ドアを開けて隣の部屋に逃げた。
そこは食堂で、自分の誕生日を祝う飾り付けがされている。テーブルに並んだご馳走。
そして、大きなhappy birthdayのバルーンの前に吊さてれいる人陰。
窓の逆光で暗く浮かび上がったその人は、間違いなく暁音の父だった。
したたった血で床一面に血溜まりが出来ている。
「お父さん…?…なんで…何で…?」
ガタガタと震え立ち尽くしていると、突然耳元で掠れた囁き声。
「ハッピーバースデー、暁音くん」
「…ひっ…」
ドッドッと自分の心音が聞こえる。暁音は涙を流して震えながらその場に固まっていた。
「残念なバースデイになっちゃったね。でも大丈夫。ちゃんと君も家族のもとに送ってあげるからね。その前に…」
自分の耳がしゃぶられていることが、どこか遠いところの出来事のように感じられた。
これは、悪い夢に決まってる。夢なら早く覚めて。
そう思いながら悪夢が終わるのを待った。
でも、夢は終わらない。
陵辱された自分の体の感覚も、よく分からない。
暁音はこのまま自分も殺されるのだと思った。自分に馬乗りになるこの男に。
食堂の窓から入るわずかな光でその顔が鮮明に見えてきた。
短髪に、左右非対称な目。20代前半くらいの若い男。胸には斜めに大きく古い刃物の傷跡のようなものがある。
そして左の腕に、大きなタランチュラのタトゥー。
「ふう、暁音くん、ここで殺しちゃうのはもったいないね。もう少し俺と遊ぼうか。おいで。途中でおかしな真似したら殺すから、大人しくね。」
暁音は衣服が乱れたまま、男に無理やり手を引かれると庭の林の奥に引きずり込まれる。
そこには車が隠して停めてあった。
男は暁音の手足を縛って猿ぐつわをするとトランクに押し込んで上から毛布を被せた。
「暁音くん、しばらくの小旅行だ。君をいいところに連れて行くからお楽しみに」
その声を聞くと同時にトランクはバタン!!と音を立てて閉められた。
真っ暗な静寂のあと、エンジン音がして車は走り出す。
何度も吐きそうになりながら、暁音は夢であることを祈りつつ眠った。
暁音が全てを失った日の出来事だった。
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